高野りんごについて

1「高野りんご」とは?

 

広島県庄原市高野町産のりんごは、「高野りんご」と呼ばれます。高野りんごは収穫量が少なく、市場には、ほとんど出回りません。高野は気温差が大きいので、味がギュッと濃縮された、濃い味わいの、
みずみずしいりんごが味わえます。

2「高野りんご」の栽培の変遷

 

高野町におけるりんご栽培の歴史は古く、1913年(大正12年)島根県の大地主桜井氏が高野町和南原地区篠原山開拓事業を行い、同事業の責任者恩田徳朗氏(仁多郡阿井村出身)により、りんごを含む数種の果樹が植えられたのが始まりだと伝えられています。
 その後、1935年(昭和10年)旧下高野山村下門田只の原開拓地について地域農業の開発と経済的農業実践を目的に庄原実業高校高野山分農場が置かれ、水稲、野業、果樹などの試作が行われました。
 当時、県北地方での果樹振興に着目された庄原実業学教諭、和泉清正先生(後に広島県開拓団団長として渡満)の指導により、果樹は93アールが栽培された。特に有望視されたのがりんごで、当時の品種として、紅玉、国光、旭、紅さきがけ、倭綿、インド、ゴールデンデリシャスが植えられたほか、桜桃、洋梨、栗なども栽培されたが戦時中のため、この農場は1939年(昭和14年)に果樹の収穫をみずに閉鎖されました。青年学校生徒や地域の人によって守られたものの、放任寸前の状態のこの農園を終戦により復員された西田彌氏(本格的に果樹経営を志し、栽培技術の研究と後術の果樹園芸組合の結成などに全力を傾注し、和泉先生を高野りんごを生みの親とすれば、西田彌氏を育ての親といえる)により果樹園経営が確立されました。
 1955年(昭和30年)この年、旧上・下高野山村の2村が合併し、町政施行をされたのを機に、高野町果樹園芸組合を設立し、計画的に新植され、栽培面積も拡大されてきました。
 1963年(昭和38年)未曾有の豪雪で壊滅的な被害を受け、果樹栽培を断念する農家も現れるなど苦難の時代を経ながらも、栽培農家のたゆまぬ研究、不断の努力、1980年代に入っての園地基盤の整備により、今日の産地確立をみることができたといえます。